地蔵盆について(鷲頭 雅浩)

山口県出身の私が地蔵盆に最初に出会ったのは、平成6年(1994)年8月でした。私は中京区に住んでいるのですが、その年の3月28日に長女が生まれ、近所に住んでいるおばあちゃん(私の義母)が子供の名前を書いた赤い提灯を作ってくれて、町内の地蔵盆デビューをしたのでした。

当時、私の町内では、お地蔵さんの縁日である8月24日の直近の土日の二日間地蔵盆の行事を行っていました。お地蔵さんの祠の前にテントを張り、町内に住む子供の名前を書いた提灯をテントの周りに吊るし、テントの中では子供たちが大人と一緒に楽しく遊んでいました。土曜日の夜には、町内の人々がお地蔵さんの祠の周りに集まり、焼きそばや焼き鳥や焼きフランクフルトなどを作って宴会がはじまりました。

また、学区内を歩いていると、近所の他の町内も同じようにお地蔵さんの祠の前にテントを張ったり、祠の前のガレージに集まったりして、地蔵盆の行事を行っていました。

私は、自分の町内で地蔵盆のお世話をしていただいている人に思わず尋ねました。

「なぜ京都では各町内でこのような地蔵盆が盛んなのですか?」

その人は、腕を組みながら答えました。

「なぜと言われても答えようがないなー。生まれたときから地蔵盆があって、それが今でも続いているとしか言いようがないなー。」

同じような質問を何人かにしてみましたが答えは同じでした。地蔵盆の文化は、京都で生まれ育った人々にとってあまりにも当たり前のものであり、改めて調べるようなことはしていないというのが私の印象でした。

そんなことがあり、私は、地蔵盆のことを一度自分で調べてみようと思いました。私自身、昔から仏教のことについては関心があり、いろいろ本を読んでいたこともあったので、簡単に調べられると思ったのですが、なかなかそうはいきませんでした。本屋に行っても、地蔵盆のことを書いている本がなかなか見つからなかったのです。そこで、図書館に行って本を探したら、「宗教」ではなく「民俗」のジャンルの本棚に地蔵盆のことを書いた本が1~2冊あった程度でした。それでも数年の間に様々な本を読むことができました。

こうして私は、地蔵盆のことを調べてきたのですが、愛宕山と火除け地蔵の関係、両側町と地蔵の関係、白川の花崗岩との関係、明治の廃仏毀釈と地蔵盆の関係などを調べていくうちに、京都の人々の生活にとって地蔵盆はなくてはならないものなのだと思いました。

少子高齢化が進む中で、子供がいない町内、地蔵盆の世話をする人がいない町内など、地蔵盆をこれからも長く続けていく上では、たくさんの課題があることは事実です。しかし、京都に残る地蔵盆の文化は日本の宝であるといっても過言ではありません。文化の都・京都に暮らす私たちが、地蔵盆の文化の大切さを改めて見直し、この素晴らしい文化を次の世代に残していく努力をしなければならないと思います。

鷲頭 雅浩(前京都市東山区長)

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